勝沼ぶどう郷マラソン

レースラッシュである。
今週は山梨の勝沼まで行って、彼は10キロ、彼女はハーフを走り、来週は横浜マラソンで同じ距離を走る。彼女は、去年からハーフを走ってるし、そもそもフルマラソンを完走した猛者なので、今ここでハーフというのは距離的な心配はほとんどないと思われるのだけど、どうもそうじゃないみたい。
彼女がいちばん苦手な距離こそが、何あろうハーフなのである。
フルマラソンの半分で何がそんなに苦手なのか分からないが、どうも気持ち的な問題で、本来練習レベルであるハズの5キロでさえ、ハーフレースの通過点での5キロと10キロレースでの5キロとフルマラソンの5キロでは全然気持ちが違うそうで、ハーフでの5キロはホント精神的にガツンと来ちゃうんだそうな。
そんな彼女が長距離走を続けていく中で、もっとも攻略すべき距離がハーフ(21キロ)なわけで、横浜マラソンを翌週に控え、まずはハーフ攻略の一助にするためのレースとして位置づけた。

ちなみに、彼の方は、10キロを始めたのが今年になってからで、一応数回のレースと練習を経ての出場ではあったものの、まだまだ10キロを自分のものにはしていなくて、かなり疲れることが予想されるから、翌日から会社なのに、何ゆえ山梨まで行って10キロ走るかなーと、イマイチなモチベーションだったのである。

そんな二人は、早朝5時に無事起床し、7時30分の八王子発の「マラソン列車」に乗ることができた。
マラソン列車・・・。二人には初めての経験だったけど、遠隔地で開催される大会にはたまに用意されることがあるそうで、つまり大会事務局より乗車券を貰ってる人だけが目的地に向かうためにのみ乗車を許される列車である。JRがそういう粋な計らいをしてくれることすら知らなかった。
新宿発のマラソン列車が八王子に到着する頃には、プラットホームに大会出場者が溢れていた。列車内には当然ながら大会出場者のみ。今までクルマとかを使って自力で大会会場に向かっていた二人には、なかなか新鮮な体験だった。
※JRの粋な計らいなのか、二人で参加するのに、列車の席が1号車と5号車だったという状況は、まずはご愛敬ってことで。

※マラソン列車。ノスタルジックな車体に「団体」の文字。

さて、八王子を出たマラソン列車は、中央線をひた走り、1時間程度で勝沼ぶどう郷駅に到着。
幸い天候にも恵まれて、駅を出ると目の前に南アルプスが聳えているのが見え、まさに風林火山、甲州上陸といった趣であった。勝沼にはワイナリー巡りで何度か来ているのに、列車で来てみると全然雰囲気が違って見えるのが面白い。

※勝沼ぶどう郷駅から送迎バスへ。いつもの勝沼の違う面が見えるよう。

駅前からの送迎バスで会場まで来た二人。
彼の10キロコースは、10時10分スタートで、彼女のハーフコースはその10分後にスタートする。着替えをして万全な態勢の二人は、ウォーミングアップも兼ねて、小走りでスタート地点に向かった。
スタート地点は人でごった返していた。と言っても、それほど大きな大会ではないので、圧倒的な参加者というほどの人数ではなかったかな。
彼女と別れて彼は一人で佇み、これから始まる10キロ、1時間超の戦いに幾分ゲンナリしていた。いや、ホントあまり走るの好きじゃないのよね。しかも山梨まで来て走るのはどうもなーって感じ。
そんな彼の目に、スタート地点の先にある看板が目に入った。
「メルシャンン勝沼ワイナリー」・・・って、いつも来るワイナリーじゃないの。
あらーこんなに近かったのね。
妙に懐かしい思いに浸り、ゲンナリ気分が幾分改善。そうだ、何度も訪れている勝沼の街を走れるんだ。結構楽しめるかもしれない。
そう思った瞬間、10キロコースのスタートを告げる号砲が空に鳴り響いた。
彼の戦いの始まりである。
 

 
※スタート前の風景。コースの先に「メルシャン勝沼ワイナリー」の看板が見える。

勝沼には何度も来ているとは言え、クルマで回ったことがあるだけで、道がどのような起伏をしているかなんて、イマイチ分からなかった。山に囲まれている盆地だという地理的知識はありつつも、ヘタをすると盆地部分(つまり今回のコース)は結構平坦だとすら思っていた。それは、全くの完全な間違いであった。勘違いもいいとこであった。勝沼はかなり起伏に富んだ街であった。
スタート直後にメルシャンン勝沼ワイナリーの脇の坂道を駆け上がり道を進むと、
微妙に傾斜した道が続く。今回の彼のように「ロング・スロー・ディスタンス(LSD)」のスタンスで走っている分には、それほど問題にはならない傾斜だけど、市民の普通の生活圏内でこれほど傾斜があると、上りにしろ下りにしろ、勝沼は傾斜がデフォルトなんだなと思い知る。さて、ここからどんな坂がお目見えするか。


出たー、いきなり出た。この坂道。
既に歩いちゃってる人がいるよ。写真では分かりづらいけど、これって結構な傾斜で結構長く続く。地元の中学生は、この坂がどれだけのものかを知ってるから、逆にサジ投げちゃってるのか?
そう言えば、地元の中学生、勝沼中学の体操着を着た子供たちが目についた。たぶん学校行事の一環なんだろうけど、中学1年生から3年生までがエントリーしていて、その気合いの入れ方が伺える。ハーフ組にも中学生の参加者はいたけど、一番多かったのがこの10キロ組。ちゃっちゃと走っていく子もいれば、ホントは嫌々参加して、早く終わってほしいと思ってる子、女の子同士できゃいきゃい参加している子などがいて、なんかいいなーと思ったりした。あまりにもゼーゼー言ってる子には、思わず「頑張れ」と背中を叩きたくなる。

※ここまで上ってきた。

※うおー、これはキツそうだ。

※紅葉がキレイだなー。この3枚は全部違う坂だってんだから、今回のコースの坂の多さが分かるというもの。

※勝沼ぶどう郷駅まで上ってきた。

彼は坂道を上っていく。あくまでマイペース。いつものポテポテ走りには違いないけど、何かが違う。息がそれほど乱れていないのだ。しかも、景色を見る余裕すらある。いや、見るだけじゃなく、写真を撮る余裕すらある。なんだ、この余裕は。見ただけでうんざりするような延々と続く坂道にも、何ら怯むことなく脚を踏み出していく。彼の中で何かが変わっている。それは、某ランニングクラブで17キロを走破したからだろうか。富士山の周回100キロを走り切ったからだろうか。単に景色の良さがモチベーションを補っているからだろうか。この変化すらも、彼のモチベーションを補って余りあり、彼はずんずん坂を上っていった。景色がキレイである。風が気持ちいい。これは、楽しいってことだろうか?走るのが楽しいなんて今まで1ミリも思ったことないのに、この変化は如何に?

5キロを過ぎた辺りで、上りが一転、急な下り坂になった。
彼は少しだけブレーキをかけつつ、勢いに任せてギアチェンジ。坂をかなりのスピードで駆け下りた。以前彼女が言っていたが、下り坂であまりブレーキをかけるのは良くないそうである。けど、春に出場した山中湖レースでは、急な下り坂で勢いをつけたからか、後半かなり疲労した経験があったから躊躇があった。でも、駆け下りていくと、何となく身体がリラックスして、体力が回復しているような感覚になる。まるで、自転車で坂を上り切った後、下り坂をさーっと駆け下りていく爽快感にも似た気持ち良さ。なんだコリャ?
いくつかの起伏を攻略して、それでも景色を楽しめるだけの余裕が残っていたのは、ホントに意外であった。もうちょっとペースを上げてみてもいいかもしれない。

ふと、時計を見ると、42分。距離は・・・7キロ地点である。
つまりあと3キロ。キロ辺り7分程度のペースを予定していたが、坂道の効果もあってか、キロ6分ペースである。・・・ふーん、6分ペースか。
いや、待てよ、つまり6分で10キロ、6×10=60ってことは、このペースのままで行けば、1時間で10キロを走破できるということにならないか?
今までのレース結果では、1時間十数分でまとまっていたが、もしかしたら1時間以内のゴールも可能かもしれない。現状の疲労度から考えても、もうちょっとペースが上げられるハズである。行けるかもしれない、いや1時間以内にゴールしてみたい!
小さく気合いの声を上げて、彼はほんの少しだけペースを上げてみた。

残り3キロはほとんど平坦な道である。
何度も通った勝沼の道である。日本独特のぶどう栽培方式であるぶどう棚が続く平坦な中をトントンと走る。行けるかも、いや行けないかな、いや行けるだろ。様々な思いが交錯し、時計と見比べながら道を行く。さきほどからヒザに痛みを感じ始めている。もしかしたら大会公式のタイムでは1時間を既に超えているかもしれないけど、自分の時計だけでも1時間をクリアできるかもしれない。最後のカーブが見えた。さらに脚に力を込める。

ゴールゲートをくぐった。
まず時計を見る。
59分55秒。おおーやった、1時間以内にゴールできた!
ヒザの痛みはかなり酷くて、ほとんど右足を引きずる感じになっていた。ゴールした人に渡されるのはいつもなら「完走Tシャツ」とかバナナとかなんだけど、ここではやっぱりと言うべきかぶどうが手渡された。いつもなら口にしない種付きぶどうだけど、喉の激しい乾きのためにカブりついた。口に広がる控えめな甘さと水分がとっても良かった。こりゃ、バナナなんかよりも100倍いいわ。

※見よ!このタイムを!

※ぶどうを貪り食う彼。

濡れたシャツを着替えて、少し元気が戻ってきたので、完走証を受領しにいくと、ゼッケンに書かれたバーコードから即座に大会公式タイムの書かれた完走証がプリントアウトされた。そこに書かれた注目のタイムは・・・1時間1分39秒。あれ?
この大会はICチップを使用してゴールの時間を正確に出しているんだろうけど、たぶんスタートの時刻は一律10時10分なんだろうな。彼がスタートゲートをくぐるのに多少時間がかかったから、その分加味された時間になってたんだろうな。う〜ん、これは残念である・・・って言うか、せっかくICチップ使ってるんだから、スタートもそれぞれ実際のスタートに合わせてくれればいいのに。

さて、そろそろ彼女が戻ってくる時間である。
彼はレースのコースに戻り、帰ってきた彼女を撮影することにした。
※これだけでも、今までの10キロ走破後の彼からは全く違っている。いつもなら、ゴール後に倒れ込むように眠ってしまうのだから。

しばらく待っても彼女は現れなかった。
時間としては1時間40分過ぎで、そろそろ現れるハズだけど、目の前を通り過ぎるランナーのペースが、彼女のいつものペースよりも遅いように感じる。彼女はこんなペースでは走らない。とすれば、既に彼女はゴール済か?いや、ゴール済にしてはタイムが速すぎる。いや、自分でさえ、記録が更新できたコースだから、彼女だっていいタイムで走り既にゴールしているかもしれないなどと、不安に思っていたら、見慣れたランニングフォームで坂を駆け上ってくる彼女が見えた。
 

一瞬戸惑った。
フルマラソンを走り切り、富士山周回100キロを難なくこなしたアイアン豪脚の姿はそこになかった。脚を押さえつつ、坂を上ってくる彼女は、明らかに苦しそうだった。ペースが遅すぎた。
彼が掛けた声にさえ反応できず彼女はそのまま通り過ぎた。彼女の悲痛なゴールである。
時間は、1時間49分33秒。・・・記録更新やん。
だが、彼女は相当疲弊していた。一言「やっぱハーフは嫌いだわ」・・・う〜ん、彼の想像を絶するレース展開だったようだ。
彼女がスタートした直後の集団は、かなりハイペースだったようで、彼女もつられてペースを上げたもんだから、2キロ付近でちょっとヘバってしまったそうだ。時計を見るとキロ当たり5分ペースで、明らかにハイペース。その後、自分のペースを取り戻そうと試行錯誤しているうちに、延々と続く上り坂に差し掛かり、一気に気持ちが萎え、それでも歩かずにクリアして、やっと6キロ過ぎ付近で自分のペースを取り戻したそうな。その後下り坂を持ち前の豪脚を生かして駆け下りたおかげでそれなりのタイムが残せたが、今後のハーフマラソンに繋げるようなある意味「ハーフを自分のものにするためのテスト走行」という当初の目的は、完全に粉砕されたようだ。ならば、いつものように自分の走りを全うすることにして、それでもハーフへの苦手意識を克服することなく、タイムはいいが達成感の少ないゴールとなってしまったようである。

彼と彼女のレース後の感想は、まったく反対のものになってしまったのである。
彼はとても充実したレースだった。初めてレースを楽しいと感じた。反面、彼女は結局「ハーフは鬼門」というジンクスを補強しただけで終わったようである。それでも、レース後に美味しいぶどうを口にほおばり、スポーツ用品の模擬店の中に立ち並ぶ中小ワイナリーの試飲なぞして、それなりに充実したようである。

※ぶどうを貪り食う彼女。

3時30分。壁のように聳える南アルプスの稜線が霞む中、太陽が静かに雲に姿を隠す頃、再び現れたマラソン列車に乗る。勝沼の街とはしばらくお別れである。知り尽くしたわけでもないし、生活したわけでもないけど、このワイン生産地独特の風景は、彼の中では故郷の原風景と重なる。横浜、沼津に続く第三の故郷と言うと言い過ぎだろうか。
こうしてぶどう棚に覆われた街を後にして、二人はまた別々の車両(また粋な計らいか?)で帰途に就いたのである。
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